私たちの想い・ご挨拶

ここでは、でんホーム代表 藤本香織がどのような経緯で、この仕事をするにいたったのか、
そして、どのような想いで仕事をしているのか、について少しでもお伝えできればと思います。

【(0)そもそものはじまり】


私が生まれた日本家屋の住宅
生まれたのは、山口県下関市の一軒屋。
裏は田んぼが広がる、やや人為的ではありますがそれなりに自然のあるところでした。

そういうところで育った私が、住宅に最初に興味をもったのは、「自宅の建替え」でした。
私は生まれた時から戸建ての住宅に住んでいたのですが、
私が小学校4年生の頃、自宅が夏の数ヶ月を境にピカピカの大手住宅会社の家に建て替わりました。

それまで住んでいたのは、大工の棟梁とまだ若かった父親が建てた、和風の庭と池、それに茶室と縁側がある日本家屋でした。


兄と下関市の自宅で生まれた私
この風情のある自宅が大好きだった私は、少なからずショックを受け、
新しい家に引っ越した後ももうこの世からなくなってしまった思い入れのある自宅を度々思い出し、泣いていました。

この新しい住宅に馴染むにはそれほど時間はかかりませんでしたが、
自分が住宅の仕事をするようになり、この二つの自宅を比べると、
どうしても以前の古い住宅の方が想い出され、思い入れもあり、残念に思っていました。


日本家屋のころ
最近聞くところによると、父親なりの合理的判断により選ばれた住宅で、
確かに以前の住宅に比べるといろいろなメリットがあり、父の判断は正しかったと思うのですが、
子供ながらに、「住環境が心に与える影響」を初めて認識した出来事でした。

【(1)私が建築を志した理由】

それから、いろいろな要因があったのですが、振り返ると、
私が建築を志した理由としては、元々建築家になりたかったという造園家の父の影響が大きいと感じます。
彼、つまり私の父は元々手先が器用で、大工さんの仕事を間近で見たりしながら育ちました。
そのため、彼は、建築家になりたいという夢を持つようになっていました。


小学生のころ
ただ、彼は若い頃、彼の父(つまり私の祖父)の会社で働く事を選んだのです。
そうして、建築家への夢をあきらめたのです。
父は造園家としては地元でそれなりの仕事を果たし充実した人生だと思います。

30歳を超えた今、私が自分の人生を振り返ると、 高校生だった私は彼が諦めたであろう
夢のひとつであった建築の道に進んで、 大好きな父を喜ばせたかったのだろうと思います。

【(2)建築の道における挫折と住宅設計との出会い】

建築の道を選んだ私は、1997年広島大学の工学部に入り建築を学びました。
また、その後、多種の建築が学べるという理由で2001年急成長していた四国の建設会社に入社し、

建設会社で働くころ
子供の頃の苦い想い出のある、住宅の設計を志望しました。

しかし、ただ父を喜ばせたい、という想いと、建築に対するイメージの憧れだけで入った建築業界は、
私にとっては想像以上に厳しい場所でした。

手先は不器用で、スケッチは下手。
有名建築も知らない、歴史も知らない。
桁って?貫って?框って?尺って何センチ?かねこうばい?

お手伝いした住まい
あまじまい?じょうとう?こーきんぐ? 2項道路?元利均等?謄本?・・・

今となっては基本的な用語も何も知らない状態でした。
分からない事だらけで、それまでどちらかと言えば『優等生』であった私は、
それは単に学校の勉強、という意味だけだったという事に気付くのです。

そしてそんなゼロからの状態で、勉強しながら仕事を覚え4年半。
急成長企業にありがちな、かなりのハードワークの中で、やっと自分の思い通りの住宅設計ができるようになっていました。


ポストアンドビームも担当
一般の木造住宅から、最高品質の高断熱高気密住宅、またログハウス、 ポストアンドビーム、外断熱、充填断熱など7種類の形体の住宅、 また営業同行も多く単身用住宅から3世代同居住宅など様々な家族形態の住宅を担当しました。
そして最後の1年は地方支店の唯一の設計担当者として配属されました。

大変忙しく、プライベートは全くありませんでしたが、お客様からの感謝の言葉が直接もらえる この仕事に大変なやりがいを感じていたと同時にこれが私の天職、と感じていました。

【(3)家族の大切さに気付く】

仕事も順調だった2005年。
高校を卒業してから実家を出て8年、 久しぶりに戻った実家で、年老いた両親の面倒を見ていた母の姿を目の当たりにしました。

彼女は、自分自身も難病指定の不治の病で症状が治まっている今でも月一度の検査は欠かせない身でもありました。
充実していた仕事は確かに大切で、お客様の為に働く事は至上の喜びでしたが、 結局私にとって一番大切なものは家族なのではないか、 一番大切にすべき人なのに、何かあった時にそばにいてあげられないのでは、、という想いがつのり、 退職し、下関に戻る事を決意しました。  

下関に戻ってからも、家事を手伝いながら、地元の工務店や建築設計事務所で様々な経験を積みました。
ここでは、2×4工法の住宅や初めてRCの集合住宅、式場などを経験しました。

そんな中、母親が面倒を見ていた祖父が亡くなりました。
身近な人の死というものを初めて経験した私は、人の死というものを考えさせられると同時に、
人生は一度きりで、過ぎた時間は取り返しがつかず、後悔しない生き方をしたい、と考えるようになりました。

当時結婚しようと決めていた彼の希望で、 2007年、今度は今から作っていく自分の家庭を大切にしたい、との想いで福岡に移住を決めました。

その考えにはその頃、両親も賛成していました。
そして、ある建築家の元で働く機会を得ましたが、公民館のような公共施設や、 老人ホームのような福祉施設、店舗の設計などで、 同じ建築業界でも住宅設計とは全く違う知識やスキルを必要とされる業界だったのです。

怒鳴られながらも必死で仕事をこなす毎日。
女性一人であった為に、設計の仕事の合間に事務や経理、電話、接客の仕事もしていました。
そして、やはり仕事以外は何もできない毎日が続きました。

仕上げた図面、何時間もかけて描いたパース、プレゼン、資料、提出するもの、理由も分からず全て没。
住宅設計をしていた頃に感じていたプライドというものは全く無くなり、自分の存在意義は全く感じられない状況でした。

そのような時に、婚約者が何度か職を変わっていたこと、 またその報告をしていなかったことから、彼との結婚について両親が反対しはじめました。
これから築いていく関係の方が大切と思っていた私は、意見の違いから両親と対立し、関係も断絶。

そして、多分その状況を見ていられなかった彼は多分、私の事を思っての事でしょう。
そのまま私の前から姿を消しました。
縁もゆかりもない福岡で、1人になった私。


一人きりで書店に行っていました
仕事ばかりしていたため、近くには相談できる親戚や友人もいませんでした。
生まれて初めて、頼っていたもの、信じていたもの全てを一気に失ったのです。
ただ悲しくて、寂しくて、つらくて、むなしくて、気付けばいつも涙を流していました。
自分が生きている、自分の存在そのものに、何の価値も意味も見出せない。
そう感じていました。
数週間後、涙は出なくはなりましたが、今度は反対に、全くなんの感情も起らない数ヶ月を過ごしました。

その間ずっと考えていたのは、 自分はいてもいなくても、何の意味も何の価値もないということでした。
結局、何のために人は生きるのか、何のために働くのか。
その答えは出なかったのですが、同じように精神を患っていて苦しみの中、 私を頼ってくれた友人。
私以上につらい状況下でありながら、私の心配をしてくれた先輩。
ハンディを負った状態でも、夢のために仕事を頑張っている友人。
彼らの言葉などのお陰で、すこしづつでも、自分のできるコトをしていこう、と思えるようになりました。

と同時に、私が今までいかに「家族」という存在に支えられていたのか、 私にとって、家族とは自分の人生にとって一番大切にするべきものである、という事に気付いたのです。

少しづつ下関の家族とも自立した自分としての価値観を話す事ができるようになっていきました。
ただ、あいかわらず、自宅と職場の往復だけだったある日、 偶然、かつて住宅設計をしていた頃にお客様からいただいた、私への感謝の手紙を見つけたのです。

4年ぶりにその手紙を読みました。

私の人生を変えたお客様の手紙
その文章を読んだとき、ずっと枯れたと思っていた涙が再び溢れました。
なぜかはすぐにはわかりませんでした。
ただ、じきにわかったのは、やっと、そこに自分には無いと思っていた 自分の存在意義を見出す事ができたということだったのです。

結局、今の私にできる事は、 人の人生にとって、 大切な家族の想い出の場であり、 その想い出に寄り添う価値のある住宅を作る事だと気付いたのです。

【(4)生涯の仕事として】

このような経緯で、私は、様々な人との出会いがあり、 家族の笑顔を見る事ができ、その家がある限り、ずっとお客様とつながる事のできる、 この素晴らしい仕事を自分の生涯の仕事にしようと決めたのです。

再び、新しい気持ちで、住まいについて本当の勉強をし直しました。

そして、改めて真に良い家とは何かを自分に問い直す過程で、 今本当に必要とされる住宅は、 「家族の集う唯一無二の大切な場所」としての安全性を備え、 健康・製造過程・サポートシステム・地域・あらゆる面で安心・信頼できる住まいづくりであり、 家族にとって、世の中にとって、時代にとって、私たちにとって本当に価値があり、 未来につながる住宅である。と考えるに至っています。

そしてこれを実現するには、 住宅の構造・仕様・設備・会社の体制・アフターフォローのしくみ、 など 総合して考えると今までの既存の会社での実現は難しいと考え、 自分でゼロから創っていくことを決めました。

もう、なぜ生きていくのか、という問いを自分にしていた頃には戻らない。
私にとって本当に価値ある生涯の仕事を見つけたから。
この想いを世の中に具現化していき、多くの人の豊かな人生づくりの一端を担いたいと思っています。